■なぜ、語学学校へ通うのか?
この問いは、なぜ英語を上達させたいのか?という質問と同義になります。
せっかく外国に来たのだから、英語を話せるようになりたい。
そう思うのが当然の心理であるはずです。
しかし、将来的な自分の理想像から逆算して、本当に明確な目標を持つことができているか。
それに該当する人は、中々いないのではないかと思います。
少なくとも当時の私の周囲には、その様な意識が高い人がいた記憶はありません。
もちろん、ワーホリや留学で渡航した人に関係なく、志が高い人がいるのは間違いないです。
ただ、その目的達成のためには、本当に語学学校へ通うことが必須なのでしょうか。
ちなみに私には、明確な目的はなかったです。
単純に退屈さから解放されたいだけでしたから。
(詳細については、下記の記事も併せてご覧いただければ嬉しいです)
URL:https://neverending-rain.com/meaning-of-workingholidays/
もちろん英語力を伸ばしたいという気持ちはありました。
でも、その先に将来的な展望は何一つありませんでした。
思い返してみれば、英語を勉強する理由は以下の通りでした。
- 友達が欲しかったから
- モテたかったから
- 話せないと格好悪いと思ったから
- 勉強を頑張る自分がイケてると思っていたから
情けない話ですが、全て本当のことです。
英語を勉強したのも、毎日バイトをしていたのも、ただのポーズに過ぎなかったのです。
つまり、表面的な理由を掲げて忙しいフリをして、的外れな事をずっとしていただけでした。
バイトは、働かないと生活できないからしていました。
でも、結局それは言い訳に過ぎなかったのです。
前述の様に本当に友達が欲しくて、異性からモテたかった。
本当にそう思ったのであれば、例えばクラブなどに行けばよかったのです。
実際、その時のシェアメイト達は、セールでビールが安くなる日に毎週通っていました。
でも、私は毎日夜はバイトがあるし、朝は学校で早起きしなくてはいけない。
その様な理由で断っていました。
ただ単に、そんな場所に行く勇気が全くなかっただけだったのに。
英語が話せないと格好悪いというのも、見栄や体裁を気にしているだけの幼稚な思考です。
この考え方の方がよっぽど格好悪いです。
それに硬派を気取っていただけでした。
黙々と勉強に取り組む自分がイケてるという勘違いは、気持ち悪いほどに痛々しいです。
本当は、男女で談笑している近くにいたグループが、ただ羨ましかっただけでしたから。
結局は、忙しく行動している自分に酔っていただけだったのです。
なんとなく勉強を続けていれば、自動的に英語は話せる様になるだろうと思っていました。
でも、それは大間違いでした。
他力本願な姿勢でかつ、頑張る理由も後ろ向きだったので、ほとんど進歩はなかったのです。
海外に行くのであれば、誰もが英語を上達させたいと思う人がほとんどでしょう。
私は、何十万も払いましたが、それに見合った対価を得ることはできませんでした。
どうせやるなら、無駄な出費はなくしたいと思うのが当然だと思います。
ただ、本当にそこでしか得ることのできないものが、あるのかどうか。
そこだけを見極めてほしいです。
■英語で受ける授業は、勉強のハードルを上げてしまう?
実際に学校に通っていた経験から考慮すると、中々勉強に集中しにくい環境になってしまう。
その様な可能性もあると思います。
1つ目の理由は、やる気があって通っている人ばかりではないからです。
どういう事かと言うと、学生ビザで滞在している人達もいるということです。
私を含む日本人は、オーストラリアのワーホリビザを取得することができます。
しかし、それを取れない国籍の人もいます。
だから、海外に滞在するために、学生ビザを取得し、仕方なく学校に通っていた人もいたのです。
宿題忘れや遅刻を頻繁に繰り返し、授業も真面目に取り組まないので先生に怒られる人もいました。
この様な人達のペースに合わせて授業をやるので、モチベーション管理が大変でした。
こちらに関連した内容も、詳細が別記事にありますのでご覧ください。
URL:https://neverending-rain.com/various-types-of-culture-shocks/
それに加えて、授業それ自体が日本人が受けてきた、座学とは異なります。
丸テーブルに少人数で着席し、ディスカッションをする形式でした。
だから、必然的に自分の意見を言わなければなりませんでした。
しかし、意見はあっても、それをすぐに英語で表現することは中々できなかったのです。
なぜなら、アウトプットする訓練が皆無だったからです。
それに、人前で自己主張するという場面で緊張してしまう。
それも、ダンマリしてしまうことに更なる拍車をかけました。
2つ目の理由は、英語で説明されても、混乱してしまうということです。
例えば、Present perfect~, Past perfect~,と黒板に書いてある事と説明をひたすら聞いて、
これは、現在完了形と過去完了形の事を言っているのだろうか?
そう気づいた時がありました。
正直、ヒアリングが弱い自分には何を言っているのかサッパリでした。
それに元々知っている内容を英語で説明されても、余計分かりづらいだけだったのです。
また、2人1組になって課題を行う時がありました。
その時も、当然先生が説明をしますが、指示の内容が聞き取れませんでした。
今何ページのどこの問題を解いているのか、どこの文章を順番に読み上げているのかなど。
皆が一斉に取り掛かる中で、自分だけ状況を把握できずにポカンした事は数え切れません。
これは、授業を受ける以前の問題ではないかと1人だけ取り残された孤独感がありました。
ただ、その様な状況の中でも、隣の人に一生懸命聞いたりして、いつも何とかこなしていました。
ここで、1つ伝えておきたいことがります。
私は何も、スピーキングとヒアリングが苦手な人は、学校に通うべきではないとは思っていません。
そもそも、日本人の大半はその両方が得意ではないというケースの方が多いはずです。
私の場合で言うと、もっと助けてほしいという意思表示を積極的にすべきだったのです。
その場の雰囲気を壊さない様に気を遣って、黙ってやり過ごそうとしたりしていました。
しかし、それが間違っていました。
外国人から見たら、自己主張しない人は気難しくて、話しかけづらい印象を与えてしまいます。
下手したら、やる気がない、怒っているとも捉えられてしまうかもしれません。
その様な誤解から、先生に注意されたこともありました。
やはり、郷に入っては郷に従えです。
同じ日本人なら察してくれたと思います。
しかし、相手が違う以上、もっと度胸と勇気を出すべきだった。
その様な大きな反省が心に残っています。
そうすれば周囲の認識や接する態度も変わり、仲良くなれたはずの人も増えていたでしょう。
ですが、それができていればすでに友達はいただろうし、学校にも通ってはいなかった。
それも事実だと思います。
■本質的である大事なことを見抜くためには
繰り返しになりますが、英語を話せる様になりたい。
例え、そう思わないまでも、話せて損になると思う人はいないはずです。
交友関係の幅が広がり、それまでとは違う景色が見えてくるからです。
しかし、英語が話せると言っても、人によってそれに対するレベルや程度の認識は違います。
日常会話が問題なくできる人や、通訳者並みのペラペラに話せる人だったりと様々です。
事実、私自身、ワーホリを行う前は、会話どころか英語でチャットさえできませんでした。
だから、外国人と連絡をとる際は、会話フレーズ集の例文をそのまま引用したのです。
当然、返信速度は遅かったです。
しかし、今は、専門的な会話を除き、自分の言いたいことの大半は英語で伝えられます。
その当時と比べてかなり上達している自負があります。
ただ、それを実感として感じる場面はほとんどありませんでした。
正確には、その時々で細々と感じたことはあるが、決定的な瞬間はないということです。
TOEICなどで数値化するのは簡単ですが、定量的に測ることが難しいのだと思います。
つまり、客観的に判断するということです。
何もしなければ、上達することはもちろんありません。
でも、コツコツと継続していれば、知らぬ間に自然とレベルは上がっていくものです。
だから、あくまで、英語が話せる話せないというのは、個人の主観でしかありません。
例え、どんなに凄そうに見えても、その人が話せていないと思っていたら、それが是なのです。
その逆も然りです。
何が言いたいのかと言うと、英語上達のためのルートは様々であります。
どんな道を辿ったとしても、そこに正解も不正解もありません。
だから、学校へ通うことは、必要でも不必要でもないのです。
それに学校へ通ったからといって、英語が話せる様になるとは限りません。
なぜなら、結局は、本人の努力次第だからです。
人は追い込まれないと必死になって取り組みません。
それほどまでに深刻な状況、あるいは切羽詰まった事態になれば別ですが。
では、なぜ、ほとんどの人がそうならないのか。
それは、日本人がそこまで英語の必要性を感じていないからだと思います。
これを読まれているあなたにも是非質問したいです。
英語が話せなくて大変だった、苦労したことはありますか?
はっきり言って、私の答えは”NO“です。
確かに話せる様になりたいという思いは、ずっと持っていました。
しかし、それは前述の通り、見栄や体裁を気にしていただけです。
いずれはこうなりたいという、具体的なビジョンなどなかったのです。
他人からどう見られるかという視点しか持ってなく、自分の軸がありませんでした。
だから、思っていたほどの収穫がなかったのです。
つまるところ、気持ちの変化が欲しかっただけなのだと思います。
楽しい、嬉しいと言った満ち足りた感情の充足感です。
人から欲望がなくならない以上、どこまで行っても満足することはないはずです。
なぜなら、満足してしまえばそこで成長は止まってしまうからです。
同時にそれは、生物としての死を意味することだと本能的に刻み込まれている様な気がします。
結局は、何かに打ち込んでいる時が一番楽しいのだと思います。
そして、そのプロセスに誰もが生きがいを見出しているのではないでしょうか。
それならば、語学学校に通う云々よりも、もっと大事なことがあるはずです。
だから、英語を学んで上達した先にある感情や景色の境地に目を向けてほしいと思います。
その様に視座を高くすることが、自分に必要かどうかの本質を見極めことに繋がると信じています。